科学は理系、心は文系と分けることなく、共有できる場に
酒井 邦嘉 東京大学大学院総合文化研究科 教授
岡本 拓司 東京大学大学院総合文化研究科 准教授
科学が圧倒的に強い今日だからこそ、必要とされる科学を外から見る目
まずお二人の専門領域と研究会に関わった理由について教えてください。
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酒井
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岡本
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私の専門は科学史という科学の歴史をやる分野なので、宗教や倫理、社会思想と科学とかは歴史上いろいろな話題がありますから、親しんでいる領域です。もとよりキリスト教世界で科学が生まれる経緯については、よく研究もされていますし、関心も持たれています。
ただそれは今の科学に関係ないというわけではなくて、いろいろな局面で倫理や宗教が顔を出す場面があるので、関係ないものだと油断していると足をすくわれるんです。人間の歴史の中で宗教は大きな役割を占めてきたので、長い歴史を経て広まった宗教もあれば、そうでない危険な袋小路にはまってしまう宗教もあったわけです。科学が圧倒的に強いと思っている今日では、無防備にそれに接してしまいがちになる。
そういう意味では、科学に関わる上で必要な素養だと考え参加しました。
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酒井
- 私たちは二人とも物理学科出身ですが、みなさん物理というと物質の研究と思ってしまいがちです。しかし人間の言語も含めた心の科学も物理だと思っていますし、科学の発展を科学史として捉えたり、科学研究がどのようになされるのかを研究することも重要だと思います。
例えば科学と宗教と宮沢賢治
今回のセミナーは「木魂する科学とこころ」というテーマで二部構成ですが、どのようなものなのでしょうか。
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岡本
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本来誕生したばかりの科学は、宗教なんてなくなるというのを目指したのです。啓蒙主義とかニュートン力学とか、自然科学のモデルを通して、これで神様はいらないじゃないかという話になると思っていた。しかしそうはならなかったわけです。科学が絶対なら宗教がなくなってもいいのですが、なくなってはいない。
実際今でも日本の科学者が世界に出ていく時は、ヨーロッパでどう評価されるかがとても重要なのですが、進化論やキリスト教との関係とか、そのあたりの理解を外すと大変な目にあいます。ヨーロッパの学者と話すときも、宗教だから科学と関係ないと軽く扱ってはならない。それはヨーロッパの常識とはだいぶ違いますから。
その意味で、歴史の話も結構ありますが、終わった話ではなくて、過去の蓄積がものを言いつつもこれからも関わりがあると考えて聞いていただければと思います。
また第二部の方は、日本が置かれてきた状況の中で科学と宗教はどのような問題に落とせるのかという話です。宗教と科学というとヨーロッパの話が主流だったと思われがちですが、それだけではなく、もう少し身近で、我々が生活しているアジアや日本にいるからこそ思えてくることがわかってきます。そのような科学と宗教の付き合い方があって、しかもヨーロッパの問題の作り方には当てはまらないので、これまで科学史でも研究の対象にはなってこなかったものです。しかし仏教が支配的な地域では、科学と折り合いの付け方がキリスト教がやってきたこととは違うことが起こりうるのです。その違うパターンの方がアジアに生きている我々には馴染みがあるというか、日常接しているやり方なんです。それが明らかになってくるのではないかと考えています。
科学と宗教の関係でいうとヨーロッパはイメージしやすいのですが、第二部のアジアはイメージしづらいのですが。
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酒井
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賢治は科学者としての目を持ち、学校で先生をして、創作活動をして、さらに法華経が生き方を支えていました。
自然を見たときに、目から見えてくる草花や生き物すべてに愛を感じて、そこに素晴らしさや儚さや不条理を感じながら、詩や童話が生まれました。童話の中は、どこにでも科学的な側面が見え隠れしていて、賢治独特の唯一無二の作品に仕上げられている。
実際、『銀河鉄道の夜』では、たくさんの科学的な要素が散りばめられていますね。例えば「銀河は何でしょう?」という先生の問いかけから始まっていく。そういう科学的な視点から始まって、主人公や友人たちの瑞々しい心象風景が作品の中に投影されている。未完であるにも関わらず、読む人の心を揺さぶる不朽の名作ですね。宮沢賢治の中ではさまざまな創作活動をしながら、全部渾然一体としているわけです。
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岡本
- 宮沢賢治は大変な地質学者でもありますからね。岩石の丹念なスケッチを残している。
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酒井
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よく「心の科学は心理学でしょう」と言われますが、その枠組に宮沢賢治は入らないのです。倫理思想や芸術文化もあって、それに宗教性も加えて、初めて宮沢賢治が理解できる。だからこそ大学で宮沢賢治を研究対象にする人は多いと思うのですが、いくら掘り下げても捉えきれないくらい豊穣なもの、豊かな広がりを示していると思います。誰もが知っている賢治が、誰もが知らない賢治であったりするような。宮沢賢治の本質はそこだと思うんです。
賢治の魅力を共有できるだけでもこの第二部に集まってもらう価値があるのでは思います。
夏目漱石の教え子だった寺田寅彦もまた、科学者でありながら、常に研究の対象を広げ、随筆の執筆から映画批評までやっています。俳句も作ったし、油絵もうまいし、楽器も弾いたし、さまざまなことに手を出して、どれも一級でした。そういういわゆるダ・ヴィンチ的な人が日本にもいたのです。宮沢賢治や寺田寅彦の作品に接することは、科学と隣接する領域が、どれだけの広がりを持っているかということを知る機会となるでしょう。
第一部で科学と宗教について一般教養として理解してもらい、二部ではそれを自分の体験や美意識へと広げていくチャンスになると思いますね。
「木霊する科学とこころ」が意味するものとは
このセミナーに参加して欲しい人たちへのメッセージをお願いします。
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酒井
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宮沢賢治やダ・ヴィンチは今なお実現できない技術を頭に描いており、一方で身近な自然のからくりも知ろうとしていました。またケプラーも自身の本で音楽の研究をしており、なぜ人間が美的な調和を感じるのかという疑問と同時に、宇宙がいかに調和を持ったシステムになっているかを、畏怖の念とともに語っています。そしてケプラーは宗教家でもあったわけです。
そうした大きなスケールの発想を持つ人はまれかもしれませんが、実はだれの心にも少しはある空想がもとになっています。そうした想像力を刺激する場だと思っていただければよいと思います。科学から出発しても、さまざまな可能性があるということを若い科学者に知ってもらい、科学は理系、心は文系と分けることなく、科学を中心に据えて、心のさまざまな在り方を議論したい。そうしたテーマの設定自体に魅力を感じる会にしたいと思います。
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岡本
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こういうところにアンテナを張っていると相当面白いと思います。全部を網羅的に理解するというのではなくて、まったく知らなかったけど、ひょっとして自分はこういう領域にもっと刺激を受けるのではという気付きがあるかもしれません。
そこにどんな普遍性が隠れているのだろうと、自分が今まで考えてきたことと照らし合わせてみると、ドキドキ感やワクワク感が違ってくるのです。自分の感性や感覚の持ち方は、どんなところから出発したとしても、刺激を受ける可能性はあるわけで。それはどの程度自分が響いてくるかの挑戦でもある。それが日曜の午後だけでえられるのなら、こんな効率的なこともないかと。知らないと大変ですよ。