化学系選考委員会委員長
1.今年度の申請分野の傾向
2026年度も化学系の領域には、物理化学分野、無機化学分野、有機化学分野、高分子化学分野・分子が集合した複雑系の研究などに多様な切り口の多岐に亘る研究計画が応募されました。化学研究は研究の目的に応じて純粋化学的追究、応用化学的追究があります。この観点では応用化学研究の応募がかなりの割合を占めていました。また、研究対象の物質や挙動別の切り口で捉えると、生体関連化学側面と材料化学側面などが目立ちました。
応募全体の中では有機化学分野の割合が大きく、反応開発や精密合成に加えて、分子構築手法に主眼を置いて生体関連物質を扱うテーマや非生物系の有機機能物質を扱うテーマ設定が多くを占めていました。高分子化学や物質が集合した複雑系に関連する分野も大きく増えていて、超分子周辺のテーマ、生物に絡んだ系を扱うテーマが目立ちました。無機化学分野では材料研究が目立ちました。また、分野の混じり合った研究テーマも多く観られました。
研究を進める上で優先する要素については、大きな潮流が継続して観られました。環境への負荷を低くし、資源に配慮する方法論などSDGsを前提とした研究展開です。地球の持続性への化学の寄与は世間の期待が大きく、若い世代の関連テーマへの意欲は大きいと思います。緊急を要する社会的要望ですが、一挙解決の策はありえず、これから長い年数をかけて多くの仮説の検証が必要なはずです。20世紀型の化学的パフォーマンスの追求研究からの新しい姿への移行と模索はこれからも続くと思います。
研究手法については、伝統的実験方法にAIが融合している手法の研究計画の応募が増加しているように思われます。化学分野では半世紀以上前から、経験知を基にコンピューターによる自動的な判断に用いるデータの処理方法の実用化が進められてきています。現在AIと呼ばれるこの技術は、合成方法や合成経路の選定、物質構造の自動解析、機械学習による材料設計や実験条件最適化など、計算機支援化学の技術が研究や開発の広い分野に溶け込んできています。このような状況で、物心ついたときからAIに触れて育ってきた世代の若手研究者の皆さんが、情報収集やデータ整理の補助としてAIを利用しているのか、生成AIとしての機能まで取り込んで使っているのか、境界に関する認識そのものが薄れている懸念もあります。
申請者の年齢は、大学院修士(博士前期)課程1年生と助教職の方の応募が目立つ印象を持ちました。本助成の趣旨から考えると、年齢的にちょうど相応しいと思われる博士後期課程学生に積極的に応募・活用してもらいたいのですが、逆に応募の少ない年齢帯となっているようです。博士後期課程の学生には公的支援が充実してきていて、その支援に伴う専念義務で本人独自の研究テーマは設定・実行しにくくなっている可能性もあるのかと思っています。
2.ユニークな研究課題やトピックとなるような研究
有機化学、生物有機化学、有機材料化学では新理論・新物質探索や設計・新反応・新分析手法開拓など興味深い研究提案が今年度も多数見られました。我が国が伝統的に強いところですが、これまでよく研究対象とされてきた、金属錯体を用いる反応の開発を単独の目的とする研究課題は減っているようでした。環境負荷低減への関心は高く、有機分子の合成反応設計でもそれを配慮した研究計画が当然となっていることを感じました。高分子化学および周辺分野では、分子が集まって大きな分子のような挙動を見せる超分子化学周辺のダイナミズムを扱う分子集合複雑系についての研究課題、生体に関わる物質系や生体を模す複雑な系を扱う研究課題が大きく増えました。物理化学・無機化学分野では2026年度もかなりの数の光関連の研究課題が見られました。光による物性制御や光触媒関連以外にも、光を不斉な物質と相互作用させる円偏光関連の研究課題も見られました。光とナノ粒子の相互作用に関する研究課題の申請も散見されました。無機化学分野では世界的に金属有機構造体の研究と開発が盛んですが、今年度の本助成への応募自体はさほど多いものではありませんでした。既に経済活動としての開発段階に移行したのだろうと思っています。
3.今後の申請に期待する研究
昨年度までに比べて、申請者自身の主体性が感じられる研究課題および期間内に実施する項目を具体的に提示して何をどこまで明らかにするか明確にした研究計画提案が増加したように思いました。今後も、このような提案が増えることを期待します。
同時に、研究課題について実施可能な形に組み立て、それを他者に伝わる形に仕上げることの出発点となる概念に十分な思考を注ぎ込んでいただきたいと思います。「若手」ならではの、意外なものを大いに期待します。現在の自分自身が行っている研究テーマの周辺の事柄でもよいと思います。但し、現在の研究そのものや所属研究室の計画の一部となっているものではありません。申請者本人の「行いたいこと」あるいは研究中に気になっていて確かめたいと思っていること、それに取り組む研究計画が私たちの期待する申請です。ここでは、近そうな領域の研究との違いをはっきりさせることが必要です。「この点が気になっていて、本当のところはどうなのかを明らかにしたいと思っていて、こういうアプローチをする、それによってこの辺りがはっきりする」と、そんなことが簡潔に提案されているような申請を期待します。
今後の化学研究では、分野間の境界あるいは相互乗り入れから、分野が積層した形態のものへと進化が加速していくものと予想されます。研究の実施と展開過程では、研究全体を要因に分解して自身の多角的な深い理解に繋げ、また他者にも伝える姿勢が重要です。そしてそのパフォーマンスが将来化学専門家に不可欠の資質として求められるだろうと思います。
4.申請を計画する人たちへのコメント
2026年度の申請書の審査過程で審査委員が気づいたことについて、いくつかポイントを選んで整理してみました。次年度以降に本助成に申請することを考えている皆さんに役立つことを期待します。
4-1.応用研究と基礎研究の関係について
上述のように本助成の化学系の申請では応用化学研究が純粋化学研究に比べて圧倒的に多く見られました。当然のことではありますが、応用化学の研究を展開するには化学の原理原則を適確に利用することを求められます。そこで応用化学研究の申請では、ぜひ、原理追究の視点を併せ持たせて、基礎と応用のバランスのとれた計画を提案するよう期待したいのです。難しい注文にも思えるかも知れません。しかし、応用化学研究も純粋化学研究も扱っている対象や現象は同じで、研究を観る向きが違っているだけです。研究を双方向で操るというように発想の転換を意識した研究展開を考えてほしいと思うのです。それにより当該テーマは奥行きのある研究計画となるでしょうし、将来への展開もより見通しがよくなるはずです。
4-2.申請者の研究キャリアに応じた研究計画の提案について
今年度の博士(後期)課程在籍者や修了者の方の申請は、多くの場合素晴らしく、また大変興味を惹く研究計画も多く見られました。日本の技術力が落ちていると言われますが、若い研究者の実力は全体的に質の高さを維持できていると思います。
一方、多くの博士前期(修士)課程在籍などの非常に若い方の申請書はやはり、研究計画の内容についても、また訴え方についても今ひとつ説得力が不足していることが多いように思われました。
確かに科研費のような申請の内容であれば、経歴の長い年長者がより綿密な書類を作成すると思います。今年度提出された実際の申請書でもそのような傾向のものが少なからずありました。
しかし、本助成の若手に求められているのは、研究者としての道の途上にいる若手の気持ちと立ち居振る舞いです。経験不足の若手が、経験豊かな先輩の「書類」を真似て、現行の手法を踏襲していくだけでは学術の進歩は望めないはずです。「若手」の申請計画では将来に繋がるかどうか、願わくば創造的破壊を担えるかどうか視たいところです。そこで、若い人には、焦らずに自分のアイデアに磨きをかけて、それが他の人に端的に伝わるような表現を考え抜いて計画として書き出していただきたいのです。
昨今書類作成に生成AIの助けを考える方もいると思います。基本的に生成AIは、既知の情報を大量に処理して「最大公約数的に処理、提案するもの」と考えてよいと思います。それは化学の定説の考え方に対して、未知の、新しい概念を探し出そうという作業にはきっと向いていないはずです。研究者のパイオニアとしての資質を問われる認知・創造行為の顕在物である提案書類は、生成AIが作成するもとは全く異質のもののはずです。
4-3.申請研究計画の現在地と目的地の明確化
本年度の特徴として、内容豊富を目指すゆえか「盛り沢山過ぎ」「盛り込み過ぎ」の申請書が散見された感があります。「1年弱の期間・マンパワー・予算」で実施は難しいはずと思われるレベルの内容の申請書です。
申請者の皆さんは自らの手で実験を行い、データを分析、そして次に進めていく研究過程を一人で行うことを想定して申請書を作成していることと思います。研究リーダーがチームで行う仕事とは違うはずです。いろいろなことを大量に書き込んで、この中に書かれていることのどれかを行うというのはいただけません。自分の仕事の中で発見して感動し、作業仮説を作って試行錯誤した先で掴みとる何かを想い描き、また振り返りもしっかりできるよう冷静によく練った研究課題や計画が望ましいと思います。その際、「何に絞って申請するか」熟慮を励行していただきたいと思います。漏れのないように項目を書き並べるのではなく、本助成に申請する研究計画で「自分の勝負するところはここだ」という端的なストーリーを伝える簡潔な書類です。
この観点から見直すと、必要なのは、これまでに終わっている実験結果をよく説明する表ではなく、「考え」=コンセプトを訴えるものであって、研究で目指しているものあるいは位置づけが分かり、近接分野との違いを説明するのに相応しい図が有用だと思います。最低限、グラフィカルアブストラクトのような説明図が必要で、読み手に訴えるためには、具体的に「どういう化学の研究の、ここからはみ出す部分で、どのような新奇な考えに繋がると期待している」そのような系統図・説明図です。その作成・推敲過程で、必ずしも必要ではないかも知れない事項を削ぎ落とし、研究の現在地と到達目的地を確かめながら、来た道と目指すところを再確認し、軌道修正を繰り返して自他ともに納得できるストーリーを考えてほしいと思います。それを思い描いて、生成AIではかけない、開拓者の文章に作っていただきたいです。申請者自身の頭の客観的整理にも大いに役立つと思います。
4-4.研究費用について
申請した研究は、申請者が所属する研究室で行われることになると思います。その研究室の器具や設備の借用を前提に、どの試薬を揃えるか、どの器具を導入するか計画して入手した辺りから始まります。
本助成では研究費の使用費目に制約は少ないのですが、1年弱の研究成果の論文投稿費、海外渡航費に多くの金額を割くような特殊な場合はその正当性の説明が不可欠だと考えています。支出が機器の購入に大きく偏っている場合などは、当然本文中にその点に関する合理的な説明が入っているのが妥当です。また、申請マニュアルで助成対象外と明記されている費目を挙げている残念な申請書も複数見られました。
研究計画の実施内容と支出計画は一心同体のものです。「若い」うちから十分に意識した計画を作り、真っ当な配慮を実施する能力をつけてくれることを強く望みます。


